「多文化共生」、京都・東九条マダンの経験 ―自分たちの文化をつくりだす! ~東九条マダン実行委員長 梁 説(ヤンソル)さんに聞く~

東九条マダンは、「いこかつくろか東九条マダン」をコンセプトに、京都で最も多くの在日韓国・朝鮮人が住む地域の京都駅南側にある東九条で毎年11月初めごろに行われる地域の祭りです。

 東九条は、日本人と韓国・朝鮮人が隣り合って暮らす中で、お互いの交流を育み、生活を築いてきたまちです。そこは、また、被差別部落民や障害者、老人、子ども、外国人など、多様な立場の人びとが暮らすまちでもあります。このまちで、互いの違いを認めあい、多様な文化を生き生きと表現できる場をつくりだそうとしてきたのが、東九条マダンです(詳しくは公式HPを見てください:http://www.h-madang.com/)。

 25回目を迎える今年の東九条マダンは、11月3日(金)―雨天の場合5日(日)―午前10:30~午後4時頃、元山王小学校(京都駅南徒歩5分)でひらかれます。準備でお忙しい中、東九条マダン実行委員長である梁説(ヤンソル)さんにお話をうかがいました。



東九条との出会いと、マダンへの参加

―いわゆる「民族祭」のイメージではくくれない、というのが東九条マダンの印象です。多様な表現、多様な文化が出会うマダン(広場)がどのようにしてつくりだされてきたのか、ヤンさんご自身の経験をもとにお聞かせください。


 もう30年くらい前のことになりますが、初めて鴨川に架かる橋の上から、在日が住民のほとんどを占める「東九条40番地」※を見たとき、私は、赤茶けた鉄さびの町という印象を受けました。戸惑いもありました。私がそれまで見てきたまちとはまったく違っていたのです。京都では景観がよく問題なりますが、その枠からも切り捨てられたまち、という印象でした。が、実際に住み始めてみると、子どもがやんちゃな面もあるものの隣近所の垣根が低く、いい意味でも悪い意味でも人と人との距離が近い町だと思いました。



※「松の木町40番地」・・・鴨川と高瀬川を分かつ堤防上に、当時、百数十件の住宅が密集していた。住民の多数を在日韓国・朝鮮人が占めたこの地域は、「不法住宅」と呼ばれ、長い間放置されてきたが、自治会を中心とする住民運動の力で、90年代後半、市営住宅への移転が実現した。


 マダンには、私は第4回のころから実行委員会メンバーとして関わっていきます。マダンの創成にたずさわってきたメンバーによると、当初は、「見えない軋轢」を感じる日本人と在日、在日の中でも分断されざるを得ない「南と北」、それぞれの理解も得にくかったようです。それに、「本当に障害者との共生を考えているのか?」という声、「力のない人間が集まって祭りをすることになぜ協力しなければならないのか?」という地域や行政からの批判もありました。 

 ですが、私が実行委員会に関わるようになった頃には、マダンの主旨がある程度共有されていました。粘り強く話し合いを重ねる中で、理解の輪が広がっていったのだと思います。当初から、祭りを通して一つになることももちろん念頭にあったと思います。が、反発があったり、理解が得られなかったり、という中で、「それでも自分を表出する日を作ろう」という人びとの思いがマダンをつくる根底にあったと思います。この思いが、「東九条というまちへの理解」を広げたいという多様なマイノリティの人びとの意識から生まれているからこそ、「民族祭とはくくれない」という印象を持たれるのではないでしょうか。



マダンの広がりとコミュニティの形成

―日常の暮らしや、「まちづくり」にとってマダンという祭りはどんな意義をもってきたのでしょう。


 祭りとして行事ができあがっていくと、マダンの動きは、さらに広い地域の活動への参加に発展していきました。その発展の中で最も大切なことは、日常が非日常になる感覚だと思います。祭りそのものがその感覚を呼び寄せるのはもちろんですが、何かをつくりあげる作業の中で、知っている人の違う一面をあらためて見つめることもその一つです。それに、マダンの準備期間を含めた、「いつもと違う」経験が日常へと反映し、人のつながりや新しい世代との交流を育んでいくように思います。

 東九条のまちづくりにしても、求められてきたことは、マダンとの間に大きな違いはないと思います。「生きづらさ」を感じざるを得ない状態からどう変わっていくか、がどちらもその根底にあります。

 きっと自分たちが勝手に感じているだけなんだろう、とわかっていても、どこか感じてしまう不自由さや閉塞感、「なにか違う」という感情は、東九条の問題として根強くあると思います。それでも、自らの文化をつくりだそうとする動きや空間があれば身近な人たちと思いや経験を共有することができます。そこで得たものを、地域に還元するという方向性が大切だと思います。まちづくりをする、というよりは、この自然の流れによってこそ、まちがつくられていくのかなあと思います。

東九条がマダンを受け入れるまちになり、生活にマダンが文化として根をおろす、こうして朝鮮文化だけでなく、いろんな活動を介して人びとがつながり合っていく関係が根付いてきました。地域の中に「閉じないもの・受け入れていくもの」が育まれてきた、その結果が東九条のまちづくりにつながった、という印象です。



「新しい世代」を生み出す力

―マダンには、多くの子どもや若者が参加しています。開かれたコミュニティづくりの経験が、「新しい世代」の参加と成長につながっているのでしょうか。


 「新しい世代」というと、まず、若い世代のことと考えてしまいがちです。ですが、新しい世代は、単に若い人たちという意味ではなく、新しいものを吸収し、次へと引き継いでいくことができる世代と考えています。そのうえで、これもまちづくりと同じで、その世代を成長させようと思って意図的に何かをすべきだというわけではないと思います。

 かたい考えを押し付けずに、いっしょに文化を作り、共に楽しんだりいろんな経験をしたりする中で、既成の枠組みにしばられない自分たちのありかたを示す、そんな動き、多様性を受け入れる形があれば、そのことが次世代の成長に自然につながっていくのではないでしょうか。

 子どもたちの参加については、「希望の家カトリック保育園」の取り組みが大きいと思います。先生たちが中心となって、朝鮮楽器の演奏による参加を子どもたちに呼びかけてこられました。子どもたちも、「年長さんになったら自分も演奏できる」というわくわくした気持ちをもってきました。この取り組みは、家族の参加にもつながってきたと思います。マダン当日のオープニングパレードに、子どもと一緒に親もパジチョゴリを着て参加するということもありました。また、子どもたちの練習は保育園に近い公園で行うのですが、地域の人たちにも見守っていただいています。

 小学校になっても、演奏の楽しさを体験した子どもたちが引き続きやってくる、あるいは、一時期離れていた高校生が再び楽器に取り組む、居場所のない子どもたちが参加するということもあります。また、障害をもった子どもたちの楽器演奏への参加も続けられています。

 大人たちは、つねにマダンを子どもたちに開いています。そして、子どもの意志に応じて真剣に向き合います。もちろん、何かをおしつけることはしません。自立した一個の人間として関係を結ぶことを大切にしているのです。それは、マダン全体を貫く関係性でもありますし、「地域の教育力」だといえるのかもしれません。


インタビュー・文:福谷


Sophia

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