ぶらり釜ヶ崎 その2


去年の年末、久しぶりに釜ヶ崎に足を運んだ。第48回釜ヶ崎越冬闘争に参加するためだ。1970年から続くこの闘争は、医療や福祉のサービスが停止する年末の28日から年明けの4日まで、「仲間内の団結で一人の餓死・凍死者も出さない」ことをスローガンに、炊き出しやパトロール、寝場所の提供、大阪市への申し入れ、野外コンサートなどをおこなっている。(詳しくは「釜ヶ崎実行委員会」Facebookページ



 闘争に参加する中で、本当に「最低限」の生活しか保障されていない人たちがたくさんいることを知った。「今の福祉サービスでは、命をつなぐことで精一杯。国が用意した清掃事業では、月13日間働いて3万円。宿代が1日1000円なので、1ヵ月の稼ぎは宿代に消え、食べ物がなくなる。逆に1日1000円を食費に回すと、宿がなくなる。まさに屋根をとるかご飯をとるかの状況だ。」長年この闘争に参加している男性はそう語った。こうした選択を迫られる状況が「最低限の生活」の保障と言えるのだろうか? 


 この寒い冬を路上で越さなければならない人の数は約130人。シェルター(※1)に寝泊まりする人を含めると計500人にのぼる。掲げるスローガンに反して、毎年1人2人はこの時期に亡くなっているのも現状だ。その人たちの「最低限の生活」を守るため、闘いは続いている。


 ※1)大阪市の委託事業で、「あいりん臨時夜間緊急避難所」の「今宮」および「荻野茶屋」の2か所の避難所の管理・運営をおこない、野宿を余儀なくされる労働者に毎日1040人分の寝場所を提供しているところ。


 ただ、自分はこの文章で釜ヶ崎に暮らす人たちがこの時期どれほど過酷な状況にあるのかを書きたいわけではい。なぜなら、客観的に見て僕と釜ヶ崎に暮らす人々とは「ちがう」からだ。過酷であるかどうかも、もしかすると僕の穿った見方なのかもしれない。今まで何度か釜ヶ崎に足を運んだが、そこで僕は「おなじ」ところを必死になって探そうとしてきた。それは、僕の中で釜ヶ崎に暮らす人たちへの羨望があったからだ。“ここで生きてる人はたくましい、自分にはない強さを持っている”、“困難な状況にあっても生きていくつながりがある、自分にはそのつながりはあるのか?”…。そんなことを考えながら、「ちがう」ことに不安を感じ、「おなじ」ところを見つけては安心しようとしていたんだと思う。


 しかし、こうすることは差別や偏見をなくすことにはつながらないだろう。釜ヶ崎で暮らす人たちとは無縁だと思っていて、何も知らなかった、知ろうともしなかった自分を恥ずかしいと思ったこと、「釜ヶ崎」と言っても一口にはくくれない現実があると知り、もっと一つひとつの現実について知りたいと思ったことが、このまちあるきのきっかけだった。それなのに、いつの間にかたった一言「おなじ」でくくってしまいたがっている自分がいた。


 だから僕は考えた。自分の立ち位置はどこにあるのか?自分はなぜこのまちあるきを続けるのか?…これも自分がこの先目指したい何かの一歩であると考えている。しかし、その「何か」はまだ自分でもはっきりとはわかっていない。その「何か」が自分の中で言葉になったとしても、先程の問いは考え続けなければならないだろうし、自分としてはそうしたいと思っている。


 前回のテーマは「偏見解くカギ、まちあるき」だった。しかし、偏見は壊れては作り上げられていくものだと痛感した。しかし、それを繰り返さなければ、本当の意味で偏見を「解く」ことはできないんだと思う。


Sophia

lite-lab.のメンバーやlite-lab.に関わっている方々によるWebマガジンです。今自分たちが考えていること、感じたことを発信しています。

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